『週刊新潮』(1月24日号)の
皇太子妃雅子殿下を巡る記事。執筆したのは私を取材した記者か。余りの前提知識の無さに驚きながら取材に応じたが。私が提供した事実は全く反映されていない。主なネタ元は匿名の宮内庁幹部。ご静養中の妃殿下が、負担の大きい皇室祭祀にいまだ十分に復帰されていない事実に対して、以下のように述べている。「妃殿下は合理性を重んじる海外での生活が長く、キャリアウーマンとして活躍してこられた方です。必ずしも理屈では説明がつかない祭祀という分野について、いまだに割りきれない思いをお持ちなのでは、と拝察されます」と。全く勝手な憶測に過ぎない。むしろ逆に「雅子妃は、皇室の伝統行事をとても大切に考え、完璧にこなしたいという気持ちが強いあまり、必要以上に緊張」され、「宮中祭祀は最も重要なものであるという認識があるため」、それがかえってご復帰の妨げになって来た、という証言がある(友納尚子氏『雅子妃―悲運と中傷の中で』)。私自身、拙いながら神社の祭祀に奉仕した経験がある。その経験に照らせば、後者の証言こそ納得できる。宮中での祭祀は、神社とは比べものにならない、巨大な精神的・身体的負担が伴う。それも、真面目でいらっしゃればいらっしゃるほど、重くのし掛かるのは当然だ。しかも、見逃してならない事実がある。それは、皇室祭祀の主体はあくまで天皇ご自身である、という事。皇后や皇太子妃はその脇役という位置付けだ(ちなみに皇室祭祀中、最も古態をとどめる新嘗祭は、大祭であっても皇后・皇太子妃のお出ましがない)。その天皇でさえ、当然ながらご本人のご健康が優先される。こうした皇室祭祀を巡る基本的な組み立てを、しっかり理解しておく必要がある。週刊誌に無責任な憶測を流した宮内庁幹部は誰か。少し本気で調べたら、本人を突き止めるのはさほど困難ではあるまい。だが、私にはそんな趣味も暇もない。そこで、1つだけ気になった点を指摘しておく。彼は、中央省庁の中では余りパッとしない地位を与えられている(本当はそれではいけないのだが)宮内庁の官僚として、“一流中の一流”官庁である外務省でキャリア官僚としてバリバリ活躍されていた雅子妃殿下に、屈折した劣等感を抱いているように見えてしまう。そこから歪(いびつ)な偏見が生まれ、それを知識の無い記者が有難がって、検証もしないで記事にする、という経緯を想定できる。先に引用した発言に見られる発想の紋切り型ぶりは、こちらが恥ずかしくなるほど。言う迄もないが、妃殿下は限られた「海外での生活」より、皇室に入られてからの歳月の方が遥かに長い。又、「必ずしも(通俗的な)理屈では説明がつかない…分野」が人間の生活には存在し、かつ不可欠ですらある、という認識を持つことこそが、真の「合理性」である事くらい、妃殿下が理解されていないはずがあるまい(これまでご発表になった妃殿下の御歌を謙虚に拝読せよ!)。宮内庁幹部の発言は無礼この上ない。妃殿下ではなく、彼自身が“本音では”皇室祭祀に「割りきれない思い」を抱いている、
というのが実情ではないか。